ティッシュの会

大阪の演劇ユニット

カテゴリ: トロイカ&リビエラ



今日はとても寒い日で東京の方では雪が降り、コンビニとか新聞配達の人は困っているらしい。大阪はまだ寒いだけで、冬だからこんな事もあるだろうという感じだけれど。こんな時、人々は真夏には熱中症で倒れる人もある事を忘れてしまう。日本の国には四季がありそれが人間の徳を育んで来たという側面もあると思う。今日の長所は明日の短所でありいつも絶対というのは存在しない。では絶対というのは存在するのか解らないけれど存在しないという形で存在するのではないかと思う。例えばこの世の中に必ず法則というのは存在するのであって、無秩序に存在するのではないはずである。無秩序であってもその方向性を目指すというそれはそれで法則である。目に見える物というのは結果であってある流れの内での一点にしかすぎないのであって次の瞬間はどうなるか判らない。ただ目に見えるものが結果というのはこの世の掟であって全体の流れの内ではそれがどれ程の大きさを持つかは測れない。でもそれはとても小さなものであるという事は、宗教家とか物理学者の話から推測すると想像がつく。自分のうちの自分と対話する事がこの世であって、もうひとつの世界というのは自分の声だけなのかも知れないと思うし、ひょっとしたら対話しているもうひとりの自分は宇宙そのものなのではないかと最近よく思う。
2018.1.25 久米




気がつけば、これからはクリスマス、お正月という事になります。人の悩みはあっても時は止まる事なく流れ続ける事になります。この先の事を考えても不安で具体的にどうこうする事も出来なくて何をするかと言えば、今日、やるべき目の前の事をやって行くだけです。それ以外にどうこう出来る事は無いと思います。だから悩みの本質は自分の体のある今と先の事を考えてしまう思考との時差にあるのかも判りません。体と思考が同じ場所にあれば心はそこに存在し悩む事はないのだと思います。でも多くの人間が悩むという事は、そもそも人間は体と思考がずれるように創られているのかも判りません。それを生きて行く上で修正して行く、それが修行であり人生の醍醐味であると言える様な気がします。感動とか悟りとかそれを克服した所にある心の動きであり、その体験をするために生というものが存在するような気がします。魂というのは、あの世でもあるだろうし、心が動く感動とかを体験出来るのは、この世だけのものであり、あの世では感動という体験は出来ないのだと思います。今はよく体験型消費と言いますが、それはこの世がある意味進化している事の証明のような気がします。

2017.11.25 久米



気が付けば涼しくなって、あっという間に少し寒くなってしまいました。物事の変化というのは、こんな風に進行するのだと思います。選挙も終わってみれば与党の圧勝で、今の変化よりも多くの国民は保守的なものを望んでいるようで、多くの人々も不安からか、変化よりも今でなんとか成り立っているのだから今の方が良いのではないかと考えているのではないでしょうか。でも最近、大企業の不正とか、大手銀行の何千人のリストラとかその報道の裏側にあるのは、今のままではやって行けないという事実だと思います。それが一般庶民、一般サラリーマンのレベルに降りてくるのはもう少し後で、今のシステムが壊れるのは時間の問題なのだと思います。そして、それが壊れた時にどうするかと言うと本当は何が基本になるかという事で、何を基本に生きるかという事ではないかと思うのです。孔子が最も大切な事は忠恕であると言っていますが、本当は世の中はもっと陽気で明るいものなのではないのでしょうか。華やかな一面、人々は孤独を感じ、どうしようもない気持ちになってしまう。そうではなくて、孤独の時に愛を感じるのが本来の人間の姿なのではないかと最近は考えてしまいます。
2017.9.25 久米



朝晩は少し涼しくなって秋の気配を感じる様になりました。この感じるというのが重要で、スマホで何もかも調べていると感じる事から導かれる自分自身の勘というのが失われてしまうのではないかと思ってしまいます。でも、その昔、テレビが普及した時には「テレビばっかり見ていたら何も考えなくなってしまう」と心配されたけれど、多くの場合そんな事は無くて、みんな日々考えながら苦労して生きています。だから今のみんなスマホばっかり見ている状態も、そんな大した事ではないのだと思います。人間の歴史の中でのちょっとした出来事でしかないのでしょう。今、腰に刀を差している人はいないし、バブルの時のあの大きな携帯電話を持っている人も居ません。だからこの先、スマホを見て歩いている人も居なくなるのだと思います。生活が変化しても人の幸福への想い方は今も昔も同じで「こんな感じが幸福です」というそのイメージは、ひょっとしたらあまり差が無いのではないでしょうか。健康で気持ち良く働けて、そこそこの収入があり、自分を理解してくれる人に恵まれていて、自分も周りの人を理解している。「終りよければすべて良し」と言うけれど、そうなる様に最期に向けて進んでいるのだなあと思います。
2017.9.25 久米

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今年の夏もみんな暑い暑いと言ってたけれど、その夏も終わりでもうすぐ秋がやって来ます。次は、みんな、冬は寒い寒いと言うのです。「麦藁帽子は冬に買え」と言うけれど、人間はいつもその時その時に必死で、中中、次の準備というのが出来ません。好景気が来れば、永遠に続く好景気というのはないのだからやがて次は不景気がやって来ます。世の流れに波があれば個々の人生にも波があり、その土地にも世間から注目されたり忘れ去られたり、波があるでしょう。まあ、その波を乗り越えて行くのは昔から善く言われるように「歴史に学ぶ」と言う事なのだと思いますが、それが自分自身の環境に当て嵌る場合もあれば、そうでない場合もあります。結局の所、人間が100人いたら100通りの生き方があり、100通りのまあ正解と言うものがあるのだと思います。先祖からの大きな徳に守られている人もあればその人自身が大きな徳を持っている場合もあり、又、小さな徳を少しずつ積み重ねてきた人もあると思います。社会的には恵まれなくても、あの人が喜んで呉れたからそれで一生報われたと言う人生もあるわけで、その意味では人の現世は、魂が肉体を羽織って生きているという気もします。魂の旅として考えれば生きている時間はとても短くて魂が魂としての時間の方が遥かに長いのです。それを基準に考えると本当に大切なものというものの姿が見えてくるような気がします。
2017.8.25 久米



今年の夏もいつもと同じ様に昼間は思考停止になる位、暑い感じです。だからこんな夏に少しだけ、いつもよく言われる「お金があれば幸福か」と言う事について考えてみます。結論から言えば「お金がある方が幸福でしょう」と言う事になってしまいます。でもそれでは身も蓋もないのでもう少し考えると、何よりもお金は人が運ぶものであり、やはり信用のある人の所で、能く動いています。それからやはりある程度 経済的、精神的にストレスの無い所で育った人の方が、幸福度が高い気がします。やはりそこは貧困の負の連鎖で、その負の連鎖を断ち切るのは教育と言う事になるのだと思います。確かにお金を持って不幸になる人も居るのだけれど、多くの場合はお金にその人の器が合ってなくって不幸になる場合で、突然の宝くじとかだと思います。普通のケースはその人の社会での成長とともに収入も増えて地位の高い人にも会うようになり、考え方も身に付いてくるみたいです。すばらしい人が高い地位に着く場合もあれば地位が人を育てる場合もあり、だんだん優秀になっていく場合もあるみたいです。経済は、人間の考えたか、神様が企てたかは判断出来ませんが、ひとつの大きな宗教のようなもので人の人生に大きく関係しているのが現実だなあと思うのです。
2017.7.25 久米




すっかり暑くなってもう夏という事になってしまいました。夏祭り、お盆休みと言う時期です。お盆には、墓参りですが、人間と言うのは、どうも二度死ぬらしいのです。一度は肉体的にこの世界から居なくなる、もう一度は、人の想いの中から完全に居なくなる時だそうです。確かに、自分の肉親とか、大恩人とかは、その人が死んでもからも自分がこの世に存在する限り、その人の事を想い出すでしょう。そして、その人の事を想い出している自分自身がこの世から姿を消す時、その人は初めて死んだと言えるかも判りません。たぶんあの世は想念の世界だから、この世で存在して、あの世の人の事を想うという行為と言っていいのかは不確かだけれど、その期間、あるいは、その瞬間は、人間はあの世と繋がっていると言えるのでは、と言う事です。現世とあの世の接点は、実は人間の想いの世界で、その想いの世界で長生きする人が神様的に考えると、良く生きました、と言う事なのかもと言う事です。人間の生き方に成功も不成功も無いと思うけれど、やはりそこには、まあまあとか優秀だったとか有るわけで、やはり「天知る、地知る、人知る」と言う事なのかも、という気がします。
2017.6.25 久米




あっという間に初夏の様な気候になってしまいました。まだ、これから梅雨がやってくるし、その後、本当の夏がやって来ます。人間が悩んでも、宇宙はいつも通り働いて、この地球に、そしてこの日本に四季がやって来ます。その昔、神様の前で物々交換をして、その時にお金の代わりに用いられていたのが御札(おふだ)でそれが御札(おさつ)つまり紙幣の始まりらしいのですが、ひょっとすると現代の神社は、スーパーマーケットではないかと時々、思ってしまいます。そこには、世界中から食材が集まっていて、私たちはお金を持って行けば、その食材を購入することが出来ます。カリフォルニアや南アフリカのグレープフルーツ、チリのワイン、韓国のラーメン、ニュージーランドのチーズ、今のスーパーは、世界中から商品が集まっています。私たちは、お金さえあれば、それを苦労する事なく手に入れる事が出来ます。ある種、不思議です。ある人は、山に行き、又ある人は海へ行き、又、ある人は牛や豚を一生懸命育てているそれをある意味、私たちはとても楽をして手に入れています。それは何故か、それはきっと人間が根本的には、人が群れて生きて行く動物だからだと思います。つまり人にとって助け合ったり、協力する事は、必要不可欠であり、それが無いと人は生きて行けないのだと思います。それは、人に迎合するという事では無くて、自分の信じた道を進み続ければ、いつか、どこかで誰かの眼に止まり、そこから道が開けるという事だと私は思うのですが。
2017.5.25 久米




すっかり暖かくなって、街では歓送迎会なんかを見かけるようになりました。そこには、その人の人生の色々な想いがあることでしょう。人生は自分の意志でどうにかなる事もあればならない事もあり、そこは天の力というか、神様の判断なのでしょう。それと、それまでの自分自身の魂のたどって来た流れというのもあり、この世の事だけでは判断出来ない事もたくさんあるのだと思います。毎日、日めくりのカレンダーを捲るのだけれどそこに要約すると、“あの世の千年は、現世の一日”というたぐいの事が書かれていた日がありました。そしたらなんだか急に今という時が、有り難くなってきたから不思議です。人がとらわれているのは、この世であり、もっと時間と空間を拡げたら、楽に幸福になれるのではないかなと思いました。ひとりひとりの内に宇宙があり、そしてその社会全体を包む宇宙があり、不思議です。本当は自分の内なる声を良く聞いて、自分自身の本心というものに従って行けば、何の失敗も無いのではないかと思います。そもそも失敗という事そのものが、人間の価値観で判断したもので、長い時間で捉えると必要という事になるわけで、自分の回りの事はすべて必要であるが故に起っているのだから、やはり感謝という事になるのかなあと思うこのごろです。
2017.4.25 久米

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