2017年05月

人間座スタジオ
5月13日、14日と京都の人間座スタジオでおこなわれたC.T.T. セレクション・イン・京都 vol.118上演会に、出演していました。
遅ればせながら、観にきてくださった方、協力してくださった方、ありがとうございました。

「C.T.T.」に参加するのは、2015年2月の「C.T.T.大阪事務局試演会 vol.17」、2016年1月の「C.T.T. SELECTION 2016 in OSAKA」(いずれも会場はウイングフィールド)に続いて、3回目のことで、ティッシュの会は、はじめて大阪以外で作品の上演をする機会をもつことができました。はじめて京都で、お客さんに観ていただくことができてとてもうれしかったし、大阪事務局の方に推薦していただけて光栄でした。

3回の「C.T.T.」では、いずれも『あのころたのしかったね』という作品を上演しました。これは、もともとは、2015年にC.T.T.の試演会に出るにあたって、ウイングフィールドで、「C.T.T.」でやるなら?という前提でつくりはじめたものです。大阪で上演したものと京都で上演したものは、タイトルは同じですが、大きな構造はそのままに、テキストをほぼ全部書き換え、出演者の役割・性別を入れ替えたりしていて、自分たちとしては全然違う作品になったなあと思っています。2016年にやったバージョンの記録映像をyoutubeで公開しているので、よかったらみてみてください。



そして、今回出演された「ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。」「250km圏内」の作品の感想を。本番は観れていなくてゲネプロでのパフォーマンスを観た感想です。合評会などで伺った話も含めてだらだらと書いてみます。上演順に。

ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。『川 remember』
出演者なしの「無人劇」ということを、あらかじめチラシなどで見て知っていました。舞台上にはフトン。フトンの上に何か置いてある。スマートフォンっぽい。自分が座っていた席からは視力が悪いのではっきりとはわからなかった。水の流れる音がきこえる。「ふーん、こういうかんじかー、いやでもこれ、人出ないんでしょ?30分これでいくのか?とかいいつつ誰かでてきたりして。これ、見続けるのしんどいんじゃないかなあ?こういうのはもうちょっと短い時間にかぎらないとむりじゃないかなあ?インスターレーションみたいなかんじで観る側が動いて近寄って観るのもいいんじゃ?」などとはじめは思ってたんですが、ぼーっとみてると、目の前で生きて動いているものは何もないはずなのに、あれ、「時間」が流れてるぞ、すげー、と感じるようになった。私は生きてこれを観ててそのあいだ時間が流れてる、というあたりまえのことを感じて、そっからなんかおもしろくなってきた。だから美術館のインスタレーションじゃなくてこれは劇場での上演で客席に座ってみるのがいいのだなと思った。全然長く感じなかった。座って観ていられる・・・、えらそうなことをいうと、観るのに耐えうる。すごい。自分がやるならもっと仕掛けをなんか詰め込もうとしてしまうかも。合評会で演出のヒラタさん(音響もされている)がおっしゃっていたのが、録音ずみの一本の音源を流しているのではなくて、その場で、音を入れてオペされていたということ。ライブ。演奏じゃないですか、それって。ところで、ずっと流れてる水の音なんなんだろうと観てるあいだ考えてて、風呂で手首切って水流しっぱなしの音かなあとか勝手に思ってたけど作品の題名「川」って書いてあった。


250km圏内『No Pushing』
演劇について語られるときに「身体性」ということばをよく耳にしますが、そして自分たちも使ってる言葉ですが、じゃあ「身体性」ってなんやねんといわれたら私はこたえられない。「身体性ある?ない?」ってきかれたら「ないわ、ごめんな~」って感じ。ないから罪悪感。あこがれの身体性。「演劇には身体性をともなっていなければならない」とかよく聞く。というか言われたことある。ちゃんと立てよ、動けよと。鍛錬せずだらだらやってる自分がたまに情けなくなるから「そうですね」とも思うし「うるせえ」とも思う。
250km圏内はかっこよかった。ふたりのからだ、動きは、みごたえがありました。そうか、人は、人のからだにのぼってもいいし、いっけん意味のわからない動きをつくって客に見せたり、わたしたちはそれを観ていいんだなとも思いました。おいおいいまさら~あたりまえでしょそんなこと~と思われるかもしれないけど私ふだん大きな声も出してないし踊りを踊ることもないし、やってはだめだと無意識に思い込んでることがたくさんあって。ふつうに働いてふつうに生活して、普通に、してても生きていくということはなんらかの不自由(枷)があるから、ひとつひとつ風穴をあけて、「あ、べつにしてもいいんだ」と何かからひとつひとつ自由になっていく作業をときどきしなければならない、と、私はくりかえしそう思っていまして、月並みですがそういうことをよく考えます。べつに社会生活・人間生活たのしいし枷あんのも味でしょと思ってますよそれでも。だからなんなんだ。風穴あけるために演劇観ている。中盤ぐらいから小嶋さんが気持ち悪く、黒田さんのミュージカルなどもあったので、よかった、笑っていいやつなんや、と思ってそういうたのしみもありました。うんまあでも、ただただ、からだをみていました。セクシーだったので。あんまなんも考えずウット~リ観よう、と思ってたけど、しんどくならずにいろいろなこと考えながら観ることができたと思います。何を考えていたかは忘れました。演劇をはじめたばっかりのとき、大阪の小劇場をべんきょうのためになにか観にいかなければいけない、と思って應典院に旧劇団スカイフィッシュを観に行ったことがあります。18歳ぐらいで観てすごくむずかしくて意味がわからんかったんですよ。それの演出が小嶋さんだったよ。今は松山で活動されているそうです。

2007年のチケット



2組のプロフィールなどはここに載ってます。↓
セレクション上演会のお知らせ | C.T.T. official blog
http://cttkyoto.jugem.jp/?eid=148

R7190434


これに出演するにあたり当初まったくちがう作品を持ち込む案もあったが、それは複数名登場する想定で進めたかった。
セレクションされた場所に、まったく評価を受けていないものを持っていくのも不安だったということもあったし今回は見送った。

「あのころたのしかったね」は今回で3回目の上演になった。
基本的なプロットは残すとしても、同じことをする気はないことは出井も同じ考えだった。
2月中旬頃にCTT大阪事務局から上演の打診があったので、そこから再構築に取りかかった。
前2作品ではぼくが女性という設定で話を進めるというプランだったが、今回はその役割を入れ換え、さらに年齢を少し上に設定した。
これは同性の友人同士の会話が話のベースになっているので出井が男性に成りすますなら、ひと回り以上年上のぼくに合わせてもらう必要があったからだ。
ぼくと同じく苦労したと思う。

たのしさ・たのしみとは?
何をもって人はその状態といえるのか。
という、しち面倒くさい命題を持ち、本来舞台が、演劇持っている可能性についても自分たちなりの問いを立てるということを意識して進めていった。
そうしてティッシュの会が現在あつかうべき問題について、また、私たちが直面せざるを得ない問題について考え話し合い、練り上げて臨んだ。
たいへん抽象的だがこれを文章で分かり易く、また適切に述べる技術を私は持ってないので気になるとしたら、観に来てほしかった。
それに感想は感想で、そこは演劇だからという、いくら言葉を尽くしても時間制約・経過の影響を受けやすい創作物だからでしょう。

以下はC.T.T.セレクション京都に出演された他団体にたいする、私(森嶌)の感想文です。


「ナマモノなのでお早めにお召し上がりください」

無人劇と紹介文にあったので、期待値が高かった。
ということはキビシめに観てしまうというのもはらんでいた。
布団が敷いてある。なんかペラいやつで2年半くらいそこに敷きっぱという感じ。
水の流れる音が聴こえている。
そこに電話(家電や携帯)着信がある。
視覚的には始まって5分くらいで飽きてしまう、それはそう全く視覚的には変化しないから。
そうすると目を噤んでみたり凝視したりとこちら側が工夫を凝らしだす。
頭の中でおしゃべりが始まる。
「これってまさに演劇の本質じゃねえか!?」と思いだした。
ただ眺める延々と、そしてそこにある情報から頭の中で物語を紡ぎ出す。
これは拘束(一定時間)されてないとできない行為だろう。
私たちは刑罰を受けたり、何者かに監禁でもされない限りそんなことを日常で体験できない。
そのある意味不自由な中で脳内は活発に退屈しないように働き出す。
事実ぼくはこの作品を鑑賞中に忘れていたどうでもよいことを思い出した。
じつはぼくはこういうことをやりたかったのでは思った。
微睡の状態、頭の中で見ている情景と眼で見ている事象の区別があいまいな状態、に鑑賞者を誘うこと。
これはこちら側から仕掛けて持ち込めるものではないと、この作品を観て思った。

「250km圏内」
第一印象は、名前がカッコイイと思ったことだった。
何やろうぼくには思い付かない名前で、まずそこでイメージがひろがる名前。
男女の二人が身体を密着させて、お互いの肉体を頼りにして(もたれ合って)立っている。
非常に緊張感とバランスに意識をはらい、一方が存在しないと立っていられない態勢から始まる。
女性が男性の身体をまるで木登りのよう無機物のよう扱い、はい上がったりする。
常に身体の一部、それこそ点、でしかないという部分に集中してるかの如くの動き。
ここで演じられていた二人、はけっして肉感的なタイプの人たちではなかった。
が、何とも言えない色気を感じ、これは何故かわからない不思議だった。
お二人とも軽く雑談などさせてもらった印象では、知的で創作にたいして真摯に、怯まず向き合って奉仕してきた表現者なんだろう。と思ったので。
中盤から台詞、ほぼ詩のような言葉が入る。
断片的なイメージの様にも感じるが、ダンスが言語として広がり補填する。担う。
肉体も言語なんだと改めて思う。
お洒落さ、即興性とそこはかなく流れるユーモア、がゲネプロを拝見したときの私の感想だった。

そして、
C.T.T.セレクション京都に推薦してくれた大阪事務局、京都の杉山さん、たいへんお世話になりました。

今回ご来場してくれたお客さま。
C.T.T京都のスタッフ皆さま、同じ空間・舞台で上演した、
ナマモノなのでお早めにお召し上がりください・250km圏内のメンバー、関係者の方々。
ありがとうございました。

またいつか一緒に何かできたらうれしいです。


又吉直樹『劇場』おもしろかった。
読み終わった小説がつまらんかったときに、「この成分が足らんかったから、つまらんのでは?」ということをたまに考える。その成分とは、風景 会話 感覚 理屈 感情 事件 意見 感傷 御託 風穴などで、私が自分の満足の条件なのでは?と勝手に考えているだけのもので根拠もくそもないが、『劇場』には足らん成分がないように感じた。ようは、満足して読み終わった。
"読んでいる時間にしかない"(保坂和志) ような、小説としてのおもしろさ?がありながら、あとから部分的に参照しようと思う箇所もたくさんあって、、まあそれはあたりまえか。でも折り目もつけずふせんもつけずいっきによんでしまった。いっきによめることが、おもしろいことではないが(わかってます風のいらんエクスキューズ)。
あと、私はこの作品を演劇をやっていなくても好きになったと思う。
全てを笑い飛ばさなくても、っていうのは太宰についてのなんかのインタビューで著者が言ってたなと思いだした。
笑えるところもまんべんなくあってふざけるって最高、と思ったし、怖がられるくらいおかしな部分を出していきたい、もっと怒っていきたいとも思わされた。
「青山」とのメールのやりとりが爆笑もんで、よかった。私は今まで苦情や説教のメールやLINEとにかく自分にとってつごうのわるいものは終わったらまるごと消してしまうようにしていたが(個人宛のプライベートなメールに限った話)、あとから読んだらきっとおもしろいだろうから何かの形で残しておいたほうがいいかもなと思った。怒ってるというそれじたいがおもしろいもんな。まあ怒られたらほとんど嫌いになるけど。

劇団乾杯 第12回公演「唯其丈」の公演後トークイベント(アフタートーク)に、森嶌がゲストとして参加します。
森嶌が参加するのは5月28日(日)13時の回 の 終演後です。

詳しい情報や、予約については、劇団乾杯のウェブサイトをごらんください。
http://kanpai.kiwamari.org/

劇団乾杯 第12回公演「唯其丈」
日時 2017年5月27日(土)・28日(日) 両日 各 13時 / 18時より開演 (計4回公演)
会場 PORT 大阪市此花区四貫島1-6-6 四貫島中央通商店街内 最寄駅:阪神なんば線「千鳥橋」駅
入場無料(ご予約優先)
出演 澤森晴世 奈良絵里子(客演)
作・演出 山本握微




すっかり暖かくなって、街では歓送迎会なんかを見かけるようになりました。そこには、その人の人生の色々な想いがあることでしょう。人生は自分の意志でどうにかなる事もあればならない事もあり、そこは天の力というか、神様の判断なのでしょう。それと、それまでの自分自身の魂のたどって来た流れというのもあり、この世の事だけでは判断出来ない事もたくさんあるのだと思います。毎日、日めくりのカレンダーを捲るのだけれどそこに要約すると、“あの世の千年は、現世の一日”というたぐいの事が書かれていた日がありました。そしたらなんだか急に今という時が、有り難くなってきたから不思議です。人がとらわれているのは、この世であり、もっと時間と空間を拡げたら、楽に幸福になれるのではないかなと思いました。ひとりひとりの内に宇宙があり、そしてその社会全体を包む宇宙があり、不思議です。本当は自分の内なる声を良く聞いて、自分自身の本心というものに従って行けば、何の失敗も無いのではないかと思います。そもそも失敗という事そのものが、人間の価値観で判断したもので、長い時間で捉えると必要という事になるわけで、自分の回りの事はすべて必要であるが故に起っているのだから、やはり感謝という事になるのかなあと思うこのごろです。
2017.4.25 久米

大学生のとき、mixiの日記に、毎回コブクロかミスチルの歌詞を、一曲まるまる載せてる男の先輩がいた。歌がうまい先輩。歌詞のあとに、日記の本題が続く。内容はべつに歌詞と関わりがない。あのころ、そういうのをダッセーと思っていたけど、好きな歌の歌詞を書き込みたい気持ちが、本当はわたしにもわかる。書きたかったから書いてるんやんな。頭の中で歌ってるんやんな。

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